ギフト
- イマリン
- 2016年9月13日
- 読了時間: 7分
すっかり秋の気配になり、稲刈りの姿も見られるようになりました。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか? HappySeedsCafeでは、共感的コミュニケ―ションの2回目が終わりました。
個人的に、日常での自分の中の変化が感じられる講座で、 かなり学び深いもの、意識改革に大きく貢献してくれるものになりました。 それと絡みがら、 我が家でもたくさんのイベント?があり(笑) かなり大きな夫婦げんか。離婚の危機! そして、長男は、夏休み明けから、学校をやめました。 そんなこんなで、すっかりブログもご無沙汰になりましたが(笑)
まず、夫婦喧嘩は、私的にもかなり痛手で、自分の内面からたくさんのことが出てきました。 そんな中、一番浮き上がってきたのは、私の中にある破壊欲求、というか、衝動のようなもの。 表面的にうまくいってる時も、うまくいっていないと感じている時も、 常に奥底にある、その衝動が出てくるのを、恐れていたような、待っていたような。。 危険発言ですね<(_ _)> 例えば、今、離婚をするという選択は、自分にとってすごく痛手で、本当はそう望んでいないけど、 けど、全てを壊してしまいたい、そして、そこに何かをずっと求めているような自分を感じていて。。 だから、本当は、望まないけど、そこに求めている何か。。もずっと気になっていて、 離婚、しない方がいいけど、してみたい、、みたいな葛藤。(危険危険~ってか。) 結構矛盾していて、自分でも怖かったような気がします。(自分の中の衝動を恐れる気持ち?)
え~~!!って思いますよね。。。でも、あったんです。 結局、少し落ち着いてから、(というか、その時の私は、自分の中では、やたら落ち着いていたような。。) 何回か、夫婦で話し、自分の気持ちをみつめ、とりあえず離婚は免れ(笑) その後、長男が「学校行かなくてもいんなら、行かな~い!」と。 次々起こる向き合うべきもの(笑) 私は、最初は軽く流し、夫は長男と話す。 まあ、ちょっと甘えて言ってみてるだけかな、と思っていた私も、 あれ、ホントに行きたくないのかな?って感じになり、 家族会議の結果、学校やめました(´・ω・`) 軽いですか。。? 私は、まあ、気持ちは分かるな。と。 私が一番心配なのは、家にずっと一緒にいて、私が怒ったりしないかどうかだよ。。 私の中では、長男と話す中で、長男に対してはあまり深刻な気持ちはなく、 学校で何かがあって、とか、嫌でたまらない、というよりは ただ、家にいたい、とか、行かなくていいなら行かないよ。 という軽い気持ち。ただ選択してるかんじ?だと認識してます。 長男に対しての心配はあまりわかないのです。 周りは、少々、びっくりしていたり騒いだりしていたけど(笑) そんなこんなで、楽空が(もう名前で呼びます(^^))、家にいる生活も始まり、 そんな中での、共感的コミュニケーション。 もう、タイミングばっちりというか、本当にいろいろ自分の気持ちに整理をつけることにも 違う角度からの見方という点でも、とても実践的でした。
夫婦喧嘩での衝動、楽空が学校に行かないことで生じたいろいろ、 出会いや、学び、全てが重なりながら、今思う事。
私が、小さいころから、当たり前に学校に行って、良いこと、悪いことを学んで、
家庭の中でも、当たり前にあった、大人のいう事をきちんと聞くこと、や、 学校に行くこと、先生のいう事を聞くこと、お友達と仲良くすること、おはしでたべること、 やさしいこと、勉強すること、机に上がらない、しゃべらない、行儀よく食べること、立ち歩かない。。。。。 これは良いこと、これは悪い、道徳として。常識でしょ。 大きなことから、ささいなことまで、社会の中に無数にはびこる常識や価値観。 その中で生きる人、親や先生や、たくさんの大人たちの価値観、 それらが、無自覚にも、私の中の価値観や常識として入り込み、 いつしか、自分でないものでいっぱいにして、得体のしれない苛立ちが 常に、どこかにあるようなかんじ? でも、もしかして。。。 これは、本当の私なのかな? ねえ、今のあなたの価値観や常識?は本当のあなたですか? 私が、今まで、自分のものとしていた価値観とはどこからきたものだろう? という、本当に素朴な疑問が出てきました。 私はいったい誰の価値観を自分のものとしてきてのだろう? 私は、どこの価値観を自分のものとしてきたのだろう? それは、私じゃない。 私じゃないものを、ずっと私のものとしていることから生じる自分の中の混乱、矛盾。 苛立ち。 そんなことを思った瞬間、溶けるように出てくる涙と共に、私の破壊的衝動の中にある もっと奥底の、求めというか願いが見えたような気がしました。
私が本当に求めているものは、破壊行為じゃない。 自分のものか、自分でないものか分からなくなっているいろいろを、全部はがして、 空っぽにして、 自分の本質にたどり着きたい。 本当の自分、シンプルな自分にたどり着きたいのです。 私が、愛情を示される中で、良かれと思って、手取り足取り教えられ、干渉される中で、 紛れていってしまった、素直な疑問や、好奇心。 いつしか、同じ常識の中で、子供達に接している自分。 「ママ、~~してもいい?」とよく聞いてくるこどもたち。 私の指示待ち?。。。どうするよ。どう軌道修正したらいいですか。。神様。 ある人の本を読みました。 その方は、自分に授かった命に障害があり、明日は生きるか、今日は息をしているか? そんな何年間かを過ごしてきた人でした。 その中で、死を恐れ、死の日まで、引き算して生きる自分と、反対に 不自由な中で、新しい発見を喜び、今を生きる、生命を生きる我が子に気づいたとき、 目の前で、今、確かに生きているわが子に、死の覚悟と共に、限りない生への感謝を感じた事。 そう、例えは悪いかもしれないけど、この子が、明日死ぬかもしれない、と想像した時、 学校へ行かない、とか、片づけをしない、行儀よく食べてね、とか、さわいじゃ駄目よ、とか。。。 本当は、どうでもいい、小さなことに思えちゃいませんか。。。 そんなことより、この子が、今あることを思う存分味わって、思う存分、、それさえも どうでもいいような。 今、いる、生きてるってことで、もう、いい。ありがとう。ってかんじかな。 生命を生きることに、本当に必要な常識って、あるのかな。。 本当に必要なことはすべてがそろっていて。 その、今、全てを与えられている最大の奇跡を、どうして忘れがちになるんだろう。。 イベント続きで、自分の中から上がってくる色々な思いに、 愛と感謝とか、もう無理だし~~!!。。と思ったけど。 破壊という私の中の欲求から見えてくる、もっと奥底の求めを感じることができたおかげで、 破壊、というのは手段で、本当の欲求を満たしていくためには、他のやり方だっていっぱいある っていう可能性も見えてきてるような気がします。 最中に、これはギフトだって気づいて感謝することは、まだ難しいかもしれないけれど、 でも、小さい時の体験も何もかも、何もかも、全てのことが本当に幸せな人に成るための ギフトなんだと、ちょっと素直に思える自分がいるのです。 私は全宇宙(神様)から愛されている。 私は愛することができる。 体験に良いも悪いもなくて、親が悪いわけでも、大人が悪いわけでもなくて。 私の体験は、全てがすばらしいギフトとなるだろうという、 なんというか。。 信頼感のようなもの?が、私の中で、育ってきているような気がするのです。 何か解決したわけじゃないけど、すごく温かい気持ちになるのです。 この一連の出来事が、その時には思いもしなかったギフトだと思える自分が、 たくさんの、見えないけど、確かに感じる支えが嬉しい、 そんなことを思う今日この頃。。。 ん? はい。。。なんだか、あっつ~~いブログになってしまいました?(笑)。。 まあ、たまには、熱く語るというのも。。。久しぶりだし。秋だし。なんて♡ それでは、今日はこのへんで。。ほほほ(*^^*) 今日も、みなさまが本当に自分の本質と出会い、素晴らしい奇跡と喜びと共に、 あなたの生命をおもいきり生きられますように!! 愛していますよ☆ありがとうございます!!
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